労働は楽しみ

 広島県で、3日間仕事をしてきました。

 現在の肩書きは、一つだけで○○省の○○調査員です。仕事は1年間に1回程度で、現地に出向いて申請のあった事項の許認可の助言をしています。かなり専門的知識をともないますので、出張前には、数日間の下調をして出かけました。

 出張先は、広島市から鈍行に乗り継いで約2時間の地方都市でした。同行者は、40歳過ぎの○○審査官でした。2日目は朝から夕方まで暑い中で、みっちり仕事をしました。残念なことに、幾つか申請のあった内の1件は、十分な特性を備えておらず、却下しました。

 人間は、働くことに適度なストレスがあり、健康や心にとって重要であると言われています。

 今回の3日間は、久しぶりに自費でなく出張するという不思議な感覚、日程を決めるための何度かの電話のやりとり、仕事は慣れていましたが結果から見ると1件却下というストレスを味わいました。権限をもっている仕事は、常に客観性を要求され、応対の姿勢も丁寧にしなければなりません。

 他人と関わりのある仕事では有りませんが、田舎暮らしの簡単な農業や日常の生活の中の労働を大切にしています。労働は苦痛でなく、楽しみです。

 秋に出るすじ雲が青い空に薄く広がったり、トンボがいっぱい飛んでいます。夕方には、コオロギが鳴き始めました。冬の星座であるオリオン座が、朝まだきの西空に上がっています。日中は、まだ暑いですが、すでに周辺に秋の気配が漂ってきました。

 ♪♪今しか有りません。♪♪

 ♪♪暑い夏を楽しみましょう。♪♪

 

 

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仏教徒であること

 宗教は、必要であると思っていますが、今のところ、困ったときの神仏頼みです。

 父が亡くなって数ヶ月後、体調を崩し、家族と思いたって高野山へお参りに行きました。奥の院へは、一の橋から片道約2キロメートルあり、この道を通ることにより人は、罪や汚れを払われ、浄土へ導かれると言います。道の両側には、約20万基を越える供養塔があり、織田信長や武田信玄をはじめたくさんの大名の塔は、日本史をみるようでした。真田氏ゆかりの宿坊蓮華定院に泊まり、心が落ち着きました。その後、実姉が亡くなった時は、菩提寺から申し込んでもらい、家内と京都の総本山智積院へお参りに行きました。坊に宿泊し、朝は本山の読経に参加し、心が洗われました。

 奈良は、高校の修学旅行で行っただけでしたが40歳を過ぎて、仏像に惹かれ何度か訪れました。唐招提寺金堂の廬舎那仏、薬師寺の薬師如来、東大寺の大仏、興福寺の旧山田寺仏頭、新薬師寺の十二神将立像、浄瑠璃寺の九体の阿弥陀如来、法華寺の秘仏十一面観音、秋篠寺の技芸天、飛鳥寺の飛鳥大仏、室生寺の十一面観音立像、法隆寺の百済観音等の仏像の顔が、今も目に浮かびます。

 仏像巡りが高じて木造の仏像が欲しくなりました。30㎝の十一面千手観音をはじめ、4体の四天王、1対の金剛力士、不動明王を購入し、毎日般若心経を唱えていましたが、今は、埃がかぶっています。この買い物で、へそくりを使い果たしました。しばらくして、へそくりは、額の多少に拘わらず生活を豊かにすることを知り、貯めはじめました。

 スリランカは数少ない小乗仏教の国です。中部の都市キャンディーで、一人散歩をしている時に、ホテルのボーイに誘われて近くのお寺に案内されました。誰一人いない静寂な本堂で、小柄な老師から読経と、3㎝ほどの紙の小さな巻物をもらいました。ボーイからお布施をあげるよう指示があり、少額ではなく、ホテル一泊分に相当する約5000円で寺をでることができました。一時、不安を感じましたが、老師に出くわしたことは幸運であったと、後で知りました。現在健康であるのは、この時の読経のおかげであると思っています。

 先日、菩提寺の和尚の新任お披露目式があり、数十万円のお布施を依頼されました。仏教徒として極楽浄土へ行くには、やむを得ない額と思っています。また、神棚を整理していると、明治時代と思われる不動明王大願成就の大きな木札があり、祖先も高野山の同じ宿坊に泊まったことがあったという偶然に、嬉しくなりました

 

 

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土手カボチャを食す

戦後まもなくの食生活は、ほとんどの家が、自給自足でした。

 小さいとき、振り子のネジ巻き時計が、居間に掛けてあり、ネジ巻きは、お祖父さんの仕事でした。時計は、高いところに掛けてあったので、着物を着たお祖父さんは、踏み台のうえに上がり、振り子を止めてから、「ジー、ジー」とネジを巻きました。時々、ラジオの時報にあわせて、振り子の、「カッコン、カッコン」と動き始める音が、心地良く聞こえてきました。今も何台めかのネジ巻き時計が、同じ場所に掛かっていますが、ほとんどは止まっています。人生、あまりに真剣に生きていると、時間のたつのを忘れてしまうので、時々、止まっている時計を見ては、時間の使い方を考えています。

 当時の田起こしは、長い鍬を使い、深く、人力で起こすお祖父さんの仕事でした。一日働いても、あまり進んでいないように見えましたが、日を重ねると、広い田んぼがすべて起こされていました。これは、良い教訓となりました。

 ある暑い夏、友達と水遊びをかねて何回も沢ガニ取りに行きました。子ガニを腹に持ったカニをバケツにたくさん取り、真っ赤に蒸し上げてから、フライパンで炒りました。沢ガニはカリカリとして、おいしいと思いました。沢ガニをたくさん食べた年の運動会のかけっこは、友達も、自分も、何時もビリでした。

 秋になり、稲刈りが始まると、合間にお祖母さんとイナゴ取りに熱中しました。お祖母さんは口八丁手八丁で、小さい頃、集落の会合で、ほおかぶりをしてドジョウすくいを踊ったのには閉口しましたが、イナゴ取りは、村一番の上手ものでした。イナゴをたくさん取った年は、一斗缶に一杯になりました。イナゴをたくさん食べた年の運動会のかけっこは、いつも、一番でした。

 戦後まもなく、食べ物に不足していましたので畑の土手には、必ずカボチャを生やしました。先日、田舎に住む娘が、雑草をおさえるために畑にカボチャを生やすというのを聞いて、古い記憶がよみがえりました。ある年、天候にめぐまれ、どの土手でも、大きなカボチャがたくさんなりました。しばらくの間は、乾燥のため縁側に並べておきますが、土手カボチャは約30個はありました。

 その日から、朝、昼、晩とカボチャを食べ、一ヶ月も食べ続けると、頭がボーとしてきて、身体中が真っ黄色になってしまいました。これは、本当のお話です。 今も、カボチャは、あまり好きではありません。

 

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歩きながら考えた死

 日々好日

 六月に入った早朝、散歩に出かけた。周辺は住宅地でどこの家も、赤や青や、白などのカラフルな草花が、いっぱい咲いていた。住宅地をぬけ、初めて通る細い道は突き当たりであった。仕方がないので、別所線の短い鉄橋を渡りはじめると、中途で電車の汽笛が鳴り、慌てて走り降りた。

 線路沿いは、数百メートルにわたって花壇が作られ、歩くのが楽しかった。田んぼに作られていた小麦の穂が色付きはじめていた。昔、旅シリーズのテレビで、この道路を増田明美が歩いていた。「良いところですね」、バックは青い山、丸窓の電車が脇を走っていく風景は、平穏であった。歩きながら、この平穏と思われる見渡すどの家でも、三十数年に一度は、葬儀が行われることになると思った。

 数十年前の出来事であったろうか。男鹿半島に遠足に来ていた子供たちが、突然の秋田沖地震により津波にのまれて何人かが亡くなった。痛ましいことで、今でも、このことを思うと心が痛くなる。小さくして、また若くして亡くなる不慮の事故は、悲しくて忘れられない。

 死というものが、どんなものであるのか想像ができなかった。この5月、家内とともに自家用車で東北の旅にでて、男鹿半島へ立ち寄った。車の中で仮寝をしていて夢をみた。数十メートルはある大きな津波が、突然おそってきた。助手席にいた家内に、「どうしょう」と問いかけると、落ち着いて、「しょうがないでしょう」という。「そうかー」と思ったまもなく、車は大きな波にさらわれ、深い海の底へ沈んでいった。目が覚めてから、一瞬、死とは、こういうものかと安堵した。

小生が死んだら、墓前に芸こを集めて、賑やかに三味線などかき鳴らし、あの世に送って下され、「面白き こともなき世をおもしろく 住みなすものは 心なりけり」 (高杉晋作)

死の覚悟をし、自分の考え方をまとめ、宮本武蔵が、肥後の国で亡くなった時、「葬儀の時は晴れていたが、和尚の引導が終わるやいなや天に雷鳴が轟いた」

死んだときは、空俵に詰めて葬ってくれ、寒いときは嫌いだ。花の頃だ。「落栗の座を定めるや窪だまり」 (井上せいげつ)

最初の盥(たらい)は産湯の盥、次の盥は湯かんのための盥であろう。「盥から盥にうつるちんぷんかん」 (小林一茶)

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