嫌われ松子の一生
団塊の世代に生まれた川尻松子、享年53歳、河原にて撲殺され生涯を終える。
昭和22年、川尻家の長女として出生する。妹が病弱で、両親が妹を可愛がるため家庭に違和感をもつ。持ち前の明るさから女教師になり、幸せな日々を送る。学校での生徒引率の旅行でお金が紛失、対応の間違いから転落の人生が始まる。家を飛び出して、美容院に勤務するも、水商売から身を崩し、ヒモを殺して8年間の刑務所生活を送る。常識外の生活に、家族から縁を切られてしまう。
晩年は、自堕落な生活で肥満となり、浮浪児のような衣服を着て、ゴミの山の部屋に住み、故郷の川に想いをはせベンチに座る。遅くまで遊んでいた子供に注意したことから、河原で撲殺される(原作山田宗樹、同名映画より)。人口動態調査によると、日本の50代の死亡数は、各年齢別に年間約5000~9000人である。
戦後の混乱の中で、ちょっと道を誤ると、このような人生を送った人は、大勢居たと思います。松子は明るい性格で、人に愛されるのではなく、人を愛して、人を信用して自滅していきました。自分で選んだ不幸な道も、本人にとっては決して不幸では無かったのでしょう。苦しいときも天国へ行くときも、松子は心の中のお花畑でいつも歌を唱っていました。ある年齢以上に達した人達の旅立ちは、松子のようにわずかの希望を願いつつ、皆幸せな気持ちになっていくのではないでしょうか。
先日、田舎へ行くに2つの電車とバスを乗り継ぎ、その後約1時間歩きました。途中の峠から浅間山が見え、峠を下り、さらに登った小さい峠に小学3年生まで通った学校がありました。校庭の桜の木の下で、休憩し、持っていたおむすびを食べて、のんびりブレイクをしました。
蓼科山の山麓にあるこの小学校は生徒数が約60人で、あと2年で閉校となります。ここから30分も車を走らせれば新幹線の駅やインターができ、昔に比べると大変交通の便が良くなっていますが、今も過疎化が進んでいます。昔は、陸の孤島のような寒村で、本当に、貧しい生活でした。
この通った小学校では、当時、戦後の混乱の中で入学式の写真は撮りませんでした。また、写真は一枚もなく、楽しく走り回っていたことの他の、記憶はほとんど残っていません。ボーとしていた子だったのでしょうか。しかし、今も小学校の玄関に立っている二宮金次郎の銅像はしっかりと覚えていました。当時の子供達は、中学を卒業すればほとんどが東京や中京方面に就職しました。
明治や大正に生まれた松子と同世代の親は、遊ぶことなど無く、働くことが一生の全てであったと思っています。そして、父親は、家父長として権威をもち、家庭での座る位置も決められていました。子として親の言うことに従うことは当たり前で、逆らう子は松子のように縁を切られることも沢山あったことでしょう。
松子が生まれた昭和22年から24年生まれの世代を団塊の世代といい、物心ついた時は戦争に負けた復興の時代でした。戦災により住宅事情は悪く、食料も不足し、バナナやパイナップルは食べたことのない外国の果物でした。小学校の時に電気屋の前に街頭テレビが出現し、各家庭に洗濯機や冷蔵庫はなく、自動車は稀にしか見ることがありませんでした。
その後、団塊の世代は、高度経済成長を経験し、働くことの他に若干の生活のゆとりができ、小さな家を建てることができました。年功序列制度のなかで、努力すれば報われると夢中になって働いてきました。国民のほとんどが中流と思い、日本の経済の規模を示す国内総生産(GDP)は、アメリカについで世界第二位となり、外国を旅行しても胸を張って歩けるようになりました。
日本の経済がここまで発展するとは思っていませんでした。しかし、その後のバブルの崩壊を経て、現在の日本は様々な問題が生じています。近年、時代が急速に変わりつつあることを感じています。
定年退職する団塊の世代が嫌われないために、自己完結するだけでなく、経験で培った労働と知力を社会にどのように還元できるのか、自らに問うています。
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