杜子春はどこへ行く

Hyytytr_1 ある春の暮です。唐の都、洛陽の西の門の下に、ぼんやりと空を仰いでいる、一人の若者がありました。若者の名は杜子春といってーーーーー。

 杜子春の前に、仙人があらわれ、二度も大金持ちになり、杜子春は、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮らしをしました。三度目に仙人にあった杜子春は、こう言いました。

 大金持ちになった時には、人間は世辞も追従もするけれど、いったん貧乏になると、やさしい顔さえも見せません。人間は、みな薄情です。もう一度、大金持ちになった所で、何にもならないような気がするのです。Iiuuii

 

 杜子春は、仙人に頼み込み弟子になり、絶壁の上に座り、どんな魔性が現れても、決して声をだすなと言いつけられました。

 たくさんの魔性が現れ、誘惑されましたが、声をだしませんでした。

 杜子春は命をとられ、閻魔大王の前に座らせられました。最後に、自分の母の生まれ変わった馬への呵責ない仕打ちに耐えきれず、「お母さん」と一声叫んでしまいました。

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 その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいるのでした。かすんだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。

 

杜子春は、これからは何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりですと晴れ晴れと答えました。

 

 Dgerwwe 仙人は、「おお、幸い、今思い出したが、おれは泰山の南のふもとに一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住まうが好い。

 今頃は丁度家のまわりに、桃の花が一面にさいているだろう」と、さも愉快そうにつけ加えました。

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祇園精舎の鐘の声

98iuy7 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕わす

驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如しTyuuuy

 祇園精舎は、お釈迦様が弟子と学んだインドのお寺。淡黄色の花を開く沙羅(さら)が、二株づつ四方に生えていたが、お釈迦様の入滅したときに、沙羅の花の色が白色に変わったといわれる。盛者は、じょうしゃと読む。理(ことわり)は、世の道理のこと。

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 平家物語は、中世の文学の軍記物の代表作品である。この時代、鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』、平清盛を友として生きた西行などの文学作品には、強く心を引かれる。

 平清盛は、武士の出身として初めて太政大臣に登った。その一門郎党の権勢ぶりは、古今に例がない繁栄をとげた。

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周辺の桜が満開です。日本列島の桜前線は、秋田まで北上しています。

 

 

 

 

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ブリを買いました

 糸魚川市と静岡市を結ぶ縦の地形は、糸魚川ー静岡構造線と呼ばれ、人々の交流を阻み、東日本と西日本の独自の文化を作ってきました。

 小さい頃、正月よりお年取りが楽しみでした。我が家では、伝統的にお年取りには、鮭とブリと鯉の三点セットで、その晩の白いご飯を食べると「骨になる(大きくなれる)」と祖父母から言われました。

 は、佐久の鯉屋さんが生きたまま各家庭に届け、しばらく桶に入れて置いてから庭で切れ目にしました。祖父は、壊れると苦くなる胆のうを取り出し、一気に飲んでいました。鯉をお年取りに食べるのは佐久鯉の産地からでした。

 鮭とブリを食べる習慣は、東の文化と西の文化の境であったためだと思います。通常、東日本では鮭が主流で、西日本ではブリが主流といわれています。

 この他年末には、自宅で飼っていたウサギとニワトリを料理しました。ウサギの骨は、何時間も板の上でたたき肉団子にし、雑煮に入れました。ニワトリもウサギも肉団子以外は、お客さんに出し、食べた記憶がありません。

 東と西の文化の違いは、東の農耕馬と西の農耕牛、東のソバと西のうどん、東の赤身のさしみ(まぐろ)と西の白身のさしみ、ハモという魚の料理は最近まで知りませんでした。東日本の人々は、ほとんどが知らないのではないでしょうか。

 東の「りんごのひとりごと」と西の「みかんの花咲く丘」の曲をクリックし、聞いてみて下さい。リンゴは身近で、日常の生活の中にありますが、みかんの花咲く丘の風景には、憧れます。

 何年か前に、お年取り直前にブリを買いに行くと、余りの高い値段に買うことができませんでした。それ以来、早めに買うことにしています。

 先日、デパートの食品売場で、ブリの切れ目を自分で買ってきました。少し早すぎますが、今後も、我が家の三点セットの伝統を守りたいと思っています。

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I am a former

 英語会話講座を継続します。 動画楽しき農夫をクリックして見て下さい。

 昨日の英語会話の講座は、職業の話題が取り上げられました。先生から What do you do?という質問が全員にありました。自分の番になり、I am a farmer. と答えると笑い声が起きました。

 farmer とは辞書で引くと農場経営者となっています。クラスメイトは、farmer を家庭菜園程度に思ったのでしょうか。

 小さい頃は、田舎暮らしで牛を飼っていて、牛の背中に乗って炭焼きに行ったことを思い出しました。当時は、貧しかったのですが、のんびりブレイクの毎日でした。

 英語会話講座は来月で終わる予定でしたので、数人の仲間とメールによる掲示板を計画していました。

 そんな話を先生にすると、講座は12月で終了するのですが、その後も、自主的講座の指導をしていただけることになりました。

 授業終了後の話し合いでは、10人程度が継続する希望がありました。

 ローマは一日にして成らず 英作文に熱中しています。

   

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掲示板の体験

 二つの掲示板に書き込みをしてみました。

 最近、あちこちの掲示板を見ています。この曲は、ある掲示板で知りました。楽しいですよ。クリックしてみて下さい仲良し小道です。Sample1_4

掲示板など他人事と敬遠してきましたが、ラジオ講座に飽きてしまったので、英語や海外に関係する掲示板を探しました。

ある海外に関係する掲示板に、自己紹介をして入り込み、数回書き込みをしましたが、自分の書く材料が少なく、多分、止めになるでしょう。

 英語でトビをしませんかという掲示板に参加してみました。これまでの書き込みを読んでみると、当初は、大混乱をした時期がありましたが、現在は若い人が多く、目的は英語能力のアップに利用できるか否かでしたので、これも自己紹介をして入り込みました。

 当初、7~8人が参加していましたが、入り込むと何故か他の人の書き込みが少なくなり、最近は3人になってしまいました。こういう現象は、人間の心理としてよくありそうです。

 人数が少なく寂しいでのすが、仲間からの問いかけがありますので楽しみで、英語の能力アップには有効だと思っています。このトビへの参加は定着しそうです。

 英作文も、時間さえあれば大分作れるようになりました。最初は、手間をかけて和英辞書で調べていましたが、インターネット上に和英辞典がありますので、事前の英作文にこれを利用した方が有効です。

 掲示板に入るには、事前に自分に合うかどうか良く確認する事が重要です。石川五右衛門から始まり、世の中に悪人の絶えることはありませが、ほとんどのメル友は普通の人ではないでしょうか。

 友人に掲示板の話をすると、ほとんどの人が大丈夫かと聞きますが、「危険度は交通事故より少なく、前方不注意をしないこと」と答えています。

 

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ブログ100回の反省

 ブログを開設し、ブログ数100回目となりました。

 この間、半年余りですので約2日に一度書いていたことになります。アクセス回数は、1480回、一日平均6.9回となっていますが、半分は自分のアクセスです。

 あるブログでは、1年で1万回のアクセスがあったと報告していました。知人から、「あなたのブログは、固すぎて入り込めないわ」と言われました。

 最初の頃は、1つの課題を書くに相当な下調べをしていましたが、現在は日ごろの思いつきを書いていますので、その場しのぎです。文章を書きたい、頭の体操をしたいという初期の目的は達しました。

 先日、死を迎えるにあたり自分らしく生きたいと書きましたが、いまだ具体的なものは、つかめていません。

 パソコンテレビGyaOの動画ドキュメンタリー上智大学アルフォンス・デーケン、「死とどう向き合うか」は勉強になりました。

 現在の日本で、死はタブーとされています。生きるとは、死に近づくことで、死と向き合うことにより、生がいき、人間らしく生きられるといっています。この中にメメント・モリという言葉が出てきました。

 かって、長野県の駒ヶ根美術館で藤原新也のメメント・モリの写真展示を見てきました。「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ上のリンクをクリックしてみてください。数分できれいな動画写真が見れます。

 101回から、少しブログの模様替えをしたいと思っています。

 

 

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深まり行く秋

 金色の小さき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の丘に 与謝野晶子

 山の畑で、ソバを収穫しました。隣接の山の銀杏が金色に輝いています。終わってから畑にシートを広げ、お茶を飲みました。田舎暮らしの醍醐味です。

 空をカギ裂きに列を整え、十数羽の鳥が飛んでいきました。

 もうしばらくすると、厳しい冬がやってきます。

 来週は、少しはじけてきた豆の収穫です。

 今年は、素晴らしい大根も育ち、これも楽しみです。

 

 心豊かにいれば

 喜べば しきりに落つる 木の実かな    富安風生

 木枯らしや 目刺にのこる 海の色     芥川龍之介

 

 生き方を想えば

 冬蜂の死にどころなく 歩きけり     村上鬼城

 一杯の落ち葉となりて 昏睡す      野見山朱鳥

 「メル友募集」と書けば、奇異に感じますか。先日の小諸の事件から、いろいろと考えました。

 善人が99.5パーセントはいる事を知っていれば、善人が100パーセントでないこを知っていれば、メル友も悪くは無いような気がします。

 

 

 

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イナゴ取り

 菊の花が咲いて、紺碧の空に、赤トンボが飛んでいます。

 久しぶりに、イナゴ取りをしました。

 最初に見つけたイナゴを慌てて取ったので、稲の葉で指を切ってしまいました。赤い血がドクドクトと出ました。

 軽い霜が一度降りたため、ピョンピョンとはねるイナゴの中に、稲の葉に止まっていて動かないイナゴがいたため、約50匹をとりました。

 ビニール袋を左手に持ち、取ったイナゴを頭から押し込みました。

 家に帰ってから、沸騰したお湯の中にイナゴを沈めると、真っ赤になりました

 食べにくいのでイナゴの足を取り除き、その後、フライパンでじっくりと時間をかけて炒り、味付けをしました。

 カリコリカリ、カリコリカリ、カリコリ。遠い昔のカルシュームの味がしました。

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 青い夜道    田中冬二

 

 いっぱいの星だ

 暗い夜みちは

 星雲の中へでもはいりそうだ

 とおい村は

 青いあられ酒を あびている 

 ぽむ ぼうむ ぽむ

 町でなおした時計を

 風呂敷包に背負った少年がゆく

 ぼむ ぼむ ぼうむ ぼむ

 少年は生きものを

 背負っているようにさびしい

 ぼむ ぼむ ぼむ ぼうむ 

 

 ねむくなった星が

 水気をはらんで下りてくる

 あんまり星が たくさんなので

 白い穀倉のある村への路を迷いそうだ

 

 田園の満点の星の下を歩くと、こんな詩の中にいるような気がすることがあります。

 なおした時計は振り子のついた古時計、意識することが無くても時は過ぎゆき、ふるさとの人々が皆老いていきます。

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『こころ』を読む

 夏目漱石の復刻版を秋の夜長に、半月かかって読み終わりました。

 夕暮れが大分速くなり、夜明けはかなり遅くなりました。スポーツの秋、食欲の秋、芸術の秋ですね。

 先日の天候異変で北アルプスは、真っ白に雪化粧となりました。奥穂高岳と白馬岳で遭難された方があり、大変お気の毒なことです。

 虫の音も、時々コオロギがさびしい声で鳴き、銀杏は黄葉、桜は紅葉をはじめています。

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     夏の暑い盛りに明治天皇が崩御されました。元号は、明治から大正となりました。それから一ヶ月後のご大葬の日に、乃木大将が殉死されました。

 新聞には、西南戦争の時、敵に旗をとられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、今日まで生きてきた意味のことが書かれていました。

 西南戦争は、明治10年ですから、明治45年まで約35年の歳月がありました。『こころ』のなかの主人公の慕う先生は、この生きていた35年の歳月が苦しいか、刃を腹へ突き立てた刹那が苦しいか、どっちが苦しいだろうかと考えました。

 それから2~3日して、決心をしたのでした。

 この本は、大正時代の復刻版でしたので一字一句を目でおい、咀嚼するように読み、時間はかかりましたが、格段古い時代の本という感じはありませんでした。

 書生である主人公が思想的に尊敬する先生と出会い、交際を深め、過去の出来事が先生の人生の大きな重となり、明治から大正に変わった乃木大将の殉死を契機にこの世を去ったのでした。

 読み進むうちに、人間の心というのは常に裏腹であり、100パーセントの悪人はいないし、100パーセントの善人はいないことを感じさせられました。

 日ごろの生活で、迷うということがほとんどない自分自身にとって裏腹という言葉は、新たな発見でした。紙一重なのかも知れません。

 こころは広いようで、狭いもの。こころは狭いようで、広いもの

 孫悟空が無限の世界へ飛んでいったと思ったら、お釈迦様のたなごころに居た様な不思議な世界だと思いました。

 

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名月を楽しむ

Meigethu  梅雨に匹敵するような秋雨前線がしばらく停滞し、中秋の名月の晩は雨でした。

 

庭の机の上に、ススキとリンゴとクリと、手作りのダンゴを用意して翌日と、翌々日に名月を楽しみました。

 名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

 夕暮れになると少し寒くなりましたので、囲炉裏に火をつけました。炭に火がつくまで、煙が家中に広がりました。風が無いせいか、天井からちょうど背の高さまで、真っ黒な煙が家の中に停滞し、雲の下にいるような異様な感じでした。

 焚き木が燃え終わり炭に火がついて、ようやく落ち着きました。暖かいでーす。

 約10年位前に、昔使っていた囲炉裏のことを思い浮かべ床をはぐと、そのままの形で残っていました。

 おぼろげながら小さい頃の囲炉裏で煮炊していた頃のことを思い出します。

 時々、外に出て月を楽しみました。快晴だったのですが先ほど囲炉裏で煙ったような黒雲が突然に現れ、満月を隠してしまいました。

 先ほどまで、薄明るい月の光で黄金色に浮かんでいた水田の稲穂も暗闇に包まれてしまいました。

 一人の田舎暮らしは、楽しみがほとんどですが、時には人恋しくなることがあります。栗を焼きながら、歌を歌いました。

 静かな静かな 里の秋

 おせどに木の実の落ちる夜は

 ああ 母さんとただ二人

 栗の実 煮てます 囲炉裏ばた 

 明るい明るい 星の空

 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は

 ああ 父さんのあの笑顔

 栗のみ 食べては 思い出す

 おせどは、お背戸で裏口のこと。私の家には、裏口に大きなカヤの木があります。静かな夜にカヤの実が落ちる音がします。今は食べませんがカヤの実を拾って、フライパンで炒って食べたものです。

 昔のことを追憶しながら、囲炉裏の脇で真夜中まで、転寝をしていました。Image0141_6

                                           

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秋を楽しむ

 日曜日、お花畑で一日、焚き火を楽しみました。Image0141_4 

 朝、起きるととても寒く、焚き火をすることに決めました。お花畑の一画に作ってある炉に大きな丸太を2~3本入れて焚き付けました。これが燃えつきるまでには、数時間はかかるでしょう。

 焚き火で、まずお湯を沸かし、一人でお茶を飲みました。

 6時を過ぎて隣に住む家族と、その友人が焚き火があるのを見て集まってきました。そのうち、焚き火の周りでフライパンで卵を焼いたり、食パンを焼いて食べていました。

 前日は、男性3人でイワナ釣りに行き、それぞれが数尾づつ釣れました。日曜日は、私は行きませんでしたが、型の良いイワナとヤマメを、2人で11尾釣り上げ意気揚々と帰ってきました。行かなくて残念でした。

 約十年前に自分で山の畑に植えた栗が5本大きくなっています。朝、落ちていることを確認し午後に栗拾いに行ってみると、1本の木の栗は、動物の足跡があり、大半が食べられていました。

 それでも、小さいバケツに一杯の栗が収穫でき、帰ってから大鍋に栗を入れて焚き火で煮て、近所へも配りました。

 栗を煮終えてから、継ぎ足した丸太が赤々と燃えていましたので、急に思いついて焚き火で豚骨と鶏がらでラーメンのスープをとりました。別途、醤油で肉を煮てチャーシューを作り、大袋で買ってあるシナチクを塩出しし、この日は、麺は作りませんでしたが、知人のためにお昼においしいラーメンを食べさせました。

 いつもは、製麺機で自家製麺を作ります。

 午後は、自分の所有する山へ今年2回目のキノコ取に行き、30分くらいでアミタケとハツタケ、アミハナイグチを約30本取りました。小さいアミタケがたくさん出始めていて来週が楽しみです。

 夕暮れてから、焚き火の周りでイワナとヤマメを焼き、キノコ汁と栗で夕食をとりました。月がありませんでしたので真っ暗闇の中で、星を眺め、楽しい団らんとなりました。

 

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清貧の思想

 中野考次の『自分らしく生きる』と『清貧の思想』を読み直しました。

 日中は、ミンミンゼミが大きな声で鳴いていまが、朝方は、幾分寒さを感じる頃となりました。一昨年の夏の暑い日、中野考次が亡くなったと新聞に報道されたのが記憶に残っていました。

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別所温泉 安楽寺入り口のハス

 

 

  『自分らしく生きる』の本は、何時買ったか記憶がありませんでした。あとがきには、1983年の日本は確かに平和で、ゆたかで、明治維新以来このように平和と物質的に繁栄した時代はありませんでした。しかし、複雑に絡み合った社会の中で巣立っていこうとする若者へ、どう生きるかを示唆したい。

 一文、昔の日本には「断ちもの」という習慣があった。神にある願い事をするために何かを断つ。塩断ち、穀断ち、酒断ちなどをすること。今は、車を断つ、テレビを断つなど苦痛を伴う断ちをする習慣を思想とすることにより、何が大切かを学ぶことができる。

 一文、同類のなかにばかりいては、自分の姿はわかりにくい、「己を知る」には、異文化の鏡に自分を映してみる必要がある。

 一文、立ちどまって、たえず「なぜか」と問いかけねばならない。それが君の意識した自立生活の始まりになる。

 一文、「物の豊かさ」なしでは暮らせないか。

 『清貧の思想』は、求めて買った本である。まえがきには、日本には、物づくりとか金儲けとか、現世の富貴や栄達を追求する者だけでなく、ひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。ワーズワースの「低く暮らし、高く思う」という詩句のような「清貧を尊ぶ思想」があった。

 一文、清貧とは、たんなる貧乏ではない。それはみずからの思想と意志によって積極的に作りだした簡素な生の形態である。『徒然草』にも書かれているような「所有の心」を必要最小限にすることが精神の活動を自由にする。

 一文、「さびしさに堪えたる人の またもあれな 庵ならべん冬の山里」、西行にとって「このさびしさ」は、人生を深く生きれば生きるほど向かいあわねばならぬ存在の孤独に発し、醒めた心に必然的に付随するものでありました。

一文、「まれに木の葉の飛ぶさへや 久しき時をもてあそぶ(三好達治 百たびののち)三好達治は、澄み切った青い空を見ているとき、ほとんど葉を落とした名も知れぬ木の梢からヒラヒラと一枚の葉が空に舞うのに接して、突然そのはかない飛翔こそ永遠の時に他ならぬことを体験したのだった。

 これらの教訓は今までのいろいろな経験に役立ち、人生の大きなしるべとなっています

 

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錆びた歯車を磨く

心と身体を錆びさせないための生活が必要です。

 遙か彼方まで、黄色いマツヨイグサが咲く歩道を速歩していました。景色の良い陸橋の歩道に、真っ赤に錆びた歯車が落ちていました。止まることなく通り過ぎましたが気にかかりました。

 人生は、歯車に例えることができます。40歳まではピカピカの歯車です。40歳を過ぎると少し錆び始め、50歳を過ぎると管理をきちんとしないと、錆は深まります。

 ピカピカの歯車の時は、自分が居ないと職場は動いていかないと思いがちですが、転勤すれば必ず次の歯車が後をうめ、社会は滞りなく動いていきます。 初めての転勤の時、それまでの職場の事が気になりましたが、半年して全く問題がなかったことを知り、自分自身は取り替えのきく歯車の一つであることを知りました。

 転勤したある早朝、つくば市の農林研究団地の歩道を歩いていると、所々の歩道のタイルが汗をかいているように見えました。どうしてか考えてみると、汗をかいているのは、修理した真新しいタイルだけで、実際は露に濡れていることに気がつきました。新任地での生活は、このようなもので、ゆっくりとなじまなければいけないと知りました。

 つくば市の5年間の生活は、移転間近で大変なこともありましたが、整備された研究施設、身近の中にたくさんの情報があり、充実した日々でした。転勤前は電話代もかからないように努力していましたが、転勤先の室長は、あわてることなく沖縄や北海道の研究室員と会話をしていました。

 独身の同僚は、休日は正月の3日間だけで土日曜なし、毎日11時頃までの自主的な残業でした。他の同僚も、結婚した間近に毎晩9時過ぎまでの自主的残業で、心配したこともありました。農林研究団地内の某研究室は不夜城と呼ばれ、一晩中電灯がついていました。各研究機関の移転後、約30年が過ぎて、団地内の桜並木は、地域の名所となっているようです。

  歯車の錆は、身体ではさらに明白です。5年ほど前に人間ドッグで歯が相当痛んでいると指摘され、以来歯医者に定期的にかかると共に、歯のブラッシングを続け、一時食べられなかったスルメが食べられるようになりました。

 先日、テレビで見た70歳を過ぎている宇津井健は、日頃トレーニングを重ね、ワイシャツの下の筋肉がしっかりしているのに驚きました。それぞれの人達が身体が錆びないように相当の努力をしていることを実感しました。

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日本酒を楽しむ

 日本酒は、良い水、良い酵母、良い酒米から作られます。

 地元の蔵元から美山錦の栽培を依頼された篤農家のKさんに誘われて、U酒造協会主催による利き酒会に出席しました。利き酒は、6点(吟醸酒・純米酒・本醸造・原酒・辛口酒・甘口酒)を自分のうまいと思う順番に番号をつけ、2回試飲し順番が合っているかを競うものでした。おおよその美味しさの傾向は分かったような気がしましたが、点数は22点で、参加者約30人の内の上位だったでしょうか。

 お酒の分類は、昔は特級酒、1級酒、2級酒と分かりやすかったのですが、現在、吟醸酒、純米酒、本醸造酒に分けられています。純米酒は精米歩合が70%以下(玄米の30%をけずった米を使う、一般の食用米は精米歩合が約90%です)で醸造アルコールの添加がない米だけの酒です。吟醸酒と本醸造酒は、10%以下の醸造アルコールが添加され、吟醸酒は精米歩合が60%以下、本醸造酒は70%以下となっています。

 吟醸酒は、低温でゆっくり発酵させて果実や花のような香りが特徴的で、一般的に高級酒です。純米酒はこくがあり値段はやや高め、本醸造が最も一般的な酒です。個人的な趣向では、醸造アルコールが添加されている酒の方が、口に含んだときの切れが良く、美味しいと思っています。最近は、雑菌を殺す等の加熱処理をしない生酒が流行で、大変飲みやすく、果実のような香りが好評ですが、個人的には逆に麹臭い香りが気になって好きではありません。

 酒の辛口と甘口は、酒の糖分が多ければ甘く、少なければ辛く、さらに、酸やアルコールの度数によって影響されます。昔から、「太平の世には辛口、乱世には甘口の酒がはやる」と言われてきましたが、最近は、生酒に代表される飲みやすく、淡麗な甘口傾向でしょうか。

 安い酒は、デンプンでさえあれば屑米からも作ることができますが、美味しくありません。良い酒は、良い水、良い酵母、良い酒米から作られます。現在、全国の主要酒米は、山田錦、五百万石、美山錦の3品種といわれています。山田錦は大正12年に育成され酒米の神様的存在で、品評会に出す酒は、ほとんどが山田錦から作られています。その謎にせまってみましたが、精米に粘りがあり40%までけずっても米が割れないということの他の、科学的な知見は分かりませんでした。

 美山錦は、昭和47年に「たかね錦」という品種の種子100グラムにガンマー線を照射し、突然変異により育成された品種です。幾つかの品種育成に関わりましたが、この品種との関わりが一番思い出に残っています。

 農水省放射線育種場に依頼し照射した100グラムの種子を苗代に播き、枯死せずに生育した850株を収穫しました。その株の1穂から1粒づつ採取し、翌年2562株の稲を育てました。秋になってその株を一株づつひもで縛り、収穫、乾燥させたのち、室内で穂の先だけちぎり玄米として観察し、大粒で、心白の良く出ている株を30個体選びました。さらに、水田で詳細な観察をしたり、収量や各種特性を調べ、昭和50年に「信放酒1号(信州の放射線育種による酒米の1番目)」の名前を付け、昭和53年に奨励品種として美山錦の名前となり、現在に至っています。心白とは、粒の中央部分が疎になっていて、酒を作るとき麹菌の進入しやすい酒米の特性です。さらに、タンパク質が低いことも味に影響します。酒米は、大粒、多い心白、低タンパク質の3つが主要特性です。

 品種育成は、大変根気のいる仕事で昔は、10年に1品種が出れば良いと言われていましたが、最近は、5年に1品種がでないと責任が問われる時代となっています。苦労がたくさんありましたが、約30年という時代がたっても育成に関わった品種が栽培されていることは、望外の喜です。

人の世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ    若山牧水

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日本の人口は半減する

 時々、1歳の子供のお守りをすることがあります。

 男の子で、ようやく「おつむてんてん、いやいやいや、バイバイ」などができるようになり、歩き出すのを楽しみにしています。時間の半分は、おもちゃなどで遊び、ご飯とミルクを飲ませ、眠る前に少しぐずりますが、半分は寝ています。

 今日の朝日新聞「沢村特派員メモ、パリ」に、こんな記事が載っていました。「美術館の前は長蛇の列。待つことが大嫌いな5歳の息子はたちまち不機嫌に。すると、係員が来て、どうぞ、列の先頭へ、うわべは申し訳なさそうに、内心ではラッキーと叫んで入館する」というものです。こんな体験は、3度目で大統領官邸の一般公開や、ルーブル美術館でも行列の先頭に通され、フランスでは、「子供がいてトクした」と感じる局面があるそうです。皆さんは、どう思いますか。この暑い中、みんなが待っているのに、「不公平だ」と思いますか。

 地球の人口は、紀元1世紀には2.5億人、15世紀には4.3億人と1500年間に約2億人しか増えませんでしたが、20世紀は16億人となり、現在65億人となっています。すごいスピードですね。今後の地球人口は、1年に約1億人ずつ増えて、2050年には100億人を突破すると予測されています。人口増加による貧困や食料不足など地球の未来が、本当に心配です。

 日本では、旧石器人は約3万人と推定されています。地球が温暖化した縄文中期には、食料の充足により約30万人に増加しましたが、その後の寒冷化により減少しました。その後、弥生時代に入り、稲や麦などの作物の伝播により食料が増加し、人口は増え続け、江戸時代半ばには約3千万人と言われています。現在は、約1.28億人で、昨年から減少し、今世紀末には、半減すると予測されています。

 今月、日本の出生率が1.25に低下しているというショッキングな新聞報道がありました。一人の女性が産む子供の数の平均が、1.25人と言うことで、これまでの予測以上に少子化が進み、人口減少に拍車がかかります。人口減少は、働く世代の負担で成り立っている年金、医療、介護などの社会保障制度の崩壊につながります。また、個人消費が減少し、経済的な発展にはマイナスとなるようです。

 ヨーロッパを旅行した時、ドイツの8200万人を除けばイギリス、フランス、イタリアなどの国々は、6000万人程度の人口で、人口密度も日本より明らかに低く、日本の人口は多すぎると思いました。また、出生率について北欧を始め、オランダやフランスなどでは、経済的支援などの制度の充実により出生率を上げているそうです。

 子供は、未来の財産です。日本でも、子供が居ることにより得をするような対策が必要で、そのためには、政治が変わらなければ解決はできないと思っています。また、家庭においては、男性の側にも、育児の負担をする姿勢が求められるのではないでしょうか。こんなことを書くと、家内に自分はどうだったのと聞かれそうですが、時代の流れは大きく変わっています。

 

 

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酸素の功罪

 梅雨の晴れ間、上田公園のケヤキの木の下のベンチに座り、のんびりブレイクをしていました。

 青い空を見上げると、秋のような薄い雲が縦横無尽の模様をつくり、心が安らぐのを感じました。そして、身体の力を抜くと、酸素が全身に行き渡るようでした。

 酸素は、始め地球上には無く、その後に出現した、光合成をする藻類や植物により増え、現在大気の21%を占めています。人間の細胞は、60~100兆個あると言われ、一つ一つの細胞に、自分の身体の中では作れない酸素と栄養素を、血液を通して送り込んでいます。先日、友人のお見舞いに病院へ行くと、何人かの患者さんが酸素マスクをしていました。また、経験したことはありませんが、酸素を吸うことによりリラクゼイションできるようで、公園のケヤキの木も酸素を出しているので、同じ効果でしょう。

 酸素は、人間にとって必須のものですが、自然界で、酸素は酸化現象といわれる、金属の腐食や、食品では、腐敗、変色等の原因となる、マイナスの効果をもっています。

 最近の研究で、人間の老化、高血圧などの生活習慣病や、がんの発生は、酸素のちょっと形態が変化した活性酸素が原因であることが分かってきました。活性酸素は、空気中にある酸素が、体の中に入り、タンパク質などの身体の物質を酸化させ、金属をさびさせるように、人間の身体をさびさせます。この結果、老化が進んだり、病気が進行します。例えば、皮膚は、コラーゲンというタンパク質からなっていますが、活性酸素の酸化により肌は固くなり、しわが寄ってきます。白内障もタンパク質の酸化が原因だそうです。

 身体の中で活性酸素の発生は、健康に悪いたばこを吸うことや、緊張やストレスにより高まり、老化が助長されるといいます。公園のベンチにすわってのんびりしていることは、活性酸素を少なくするのでしょう。現在の日本人の寿命は、男性79歳、女性86歳で世界一位ですが、約7割の日本人が生活習慣病の予備軍だとも言われています。

 食物には、活性酸素に抵抗する成分があり、抗酸化性食品と言われています。例えは、人参など緑黄色野菜に多いカロチン、トマトに含まれるリコピン、ビタミンCやEなどがあります。また、そばのルチンは、脳の内出血や血圧を下げる効果があるといわれています。赤ワインのポリフェノールは、動脈硬化などの予防に良いといわれ、何年か前にブームになり、赤ワインの消費が一気に伸びたことがありました。抗酸化性食品は、時々過剰宣伝によりブームを巻き起こしますが、他の食品とのバランスと、一時的な効果は少ないと思っています。自分好みの抗酸化性食品を持つことにより、食の楽しみが増えるのではないでしょうか。

 人間の老化は、進行をおさえることはできません。しかし、適度な運動をして、ストレスを少なくし、バランスの良い栄養など、これまで言われてきたことの健康維持の実践が老化を遅らせることになると思っています。

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性善説を信じますか

 人間は、性善説か、性悪説かを考え続けてきました。

 職場に勤務していた頃、ある職員へ数年間にわたり、毎日数回以上の悪質な勧誘の電話がありました。電話を掛けてくる人たちは、若い女性であったり男性であったり、全国の各都市から組織的に行われていました。消費生活センターに相談に行き、指導を受けましたが、最終的には本人の自覚の問題だと言われました。ある日、「いい加減にしてくれよ」と電話を切ると、態度が悪いから今の応対者を出せと、数時間電話が鳴り続けました。

 その他の電話による物品の販売も頻繁でしたが、絶対買わない、承諾しないと決めていました。ある時、一瞬の気のゆるみから約4万円の本の購入を押しつけられ、送付されてきてしまいました。消費生活センターに相談し、本は返送するとともに、別途ハガキに返送理由を書き、簡易書留で送りました。先物取引には、「来客中」と手短に答え、マンションの販売には、「別荘を軽井沢と立科に持っているので余裕がない」と応対しました。

 海外では、ロンドンの地下鉄で多様な人種の目つきに、恐怖を感じました。ウィーンの地下鉄に一人で乗っていた時、あまり混んでいない時間帯に気が付くと4人組に囲まれていました。そして、前の男が下から手を出そうとした一瞬に逃げました。次の駅でホームに飛び降りると、追いかけてきました。慌てて地上に飛び出し、レストランに逃げ込みました。ヨーロッパの主要都市では、ジプシー風や子供のひったくり、ニセ警官などによる盗難の被害が頻繁です。イタリアのナポリは、交通の信号機はあってなしがごとき、観光客の出っ張っているものは、すべて取られてしまうそうです。

 性善説は、紀元前3世紀頃の中国の春秋戦国時代に孟子が、「人の性は、善である」と提唱したことに始まるそうです。性善説のひとつの指標となる、「人は、だいたいにおいて信用できる」とする電通総研による調査の、世界一比率の高い国は、ノルウェーで約65%、続いてデンマーク、スウェーデン、オランダ、フィンランドと北欧周辺の国々だそうです。これは、自然が豊かで、人口密度が低く、超福祉社会が影響しているのでしょうか。信用できないとする国は、経済的に貧しい南アメリカやアフリカの国々が多いそうです。

 日本においては、「人は、だいたいにおいて信用できる」が約40パーセントで、世界では良い方ですが、信用できないが約50%と高くなっています。これは「残念」、意外な結果ではないでしょうか。性善説の人の方が多いと思っていました。別の項目、自分の国に誇りを感じる約55%、あまり感じないが約35%で、これはこんな程度でしょうか。性善説は、孟子が提唱してから、2300年もの間生き続けてきました。新聞の社会面を見れば、悪い人はたくさん居ます。しかし、悪行をすれば、「老いてから悔いて、苦しむ」ことになるはずです。

 赤子の笑顔を見れば性善説は明らかです。人は迷っても、皆老いて、赤子のように性善になっていきます。そう信じられることの方が、幸いではないでしょうか。

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悲しいスケート

 スケートに友達と行ったが、一人で冷たいおむすびを食べた。

 小学校の同級生の家は、城下町の繁華街にあったため、医者や呉服屋、卸しなどの大店の商売屋で、子供は大別するとピアノを習っているような坊ちゃんの部類であった。

 当時は、城跡の堀や近くの池が凍り、スケートは子供たちの大好きなスポーツで、田舎では、田んぼに水を張りスケート場としたり、雪の降った2~3日後の寒い朝、道路に水をまいて滑ったこともあった。ほとんどの少年が、小学校5年生になると、かなりうまく滑れるようになっていた。

 ジョウのはじめてのスケートは、近所の鍛冶屋が作った刃を下駄に打ち付けたものであったが、作ってもらった夜は眠れなかった。同級生の坊ちゃんのスケートは、市販されていたパイプ製の下駄スケートで、銀色に光っていた。まだ、靴スケートを履いている子供は、ほとんどいなかった。ある冬の日、ジョウは、何時も遊んでいる5人の坊ちゃんたちと、遠出して須川湖へスケートに行く計画を立てた。そして、お昼は、湖畔にある食堂で食べようということになった。

 須川湖へは、子供の足で約2時間はかかる。千曲川を渡り、町中をぬけ、須川湖へ登る山道にさしかかると、吐く息は白く、とても寒かったが心はウキウキとしていた。須川湖は、小学校のグランドを4倍にした位の大きさで、全面結氷し、青白いリンクが太陽に光り、まばゆかった。真田ひもで、しっかりと足をしばり、思い切りよくリンクへ飛び出した。午前中は、仲間と競争したり、喋りながら滑り、楽しかった。

 お昼になって、みんなは、食堂に行くことになった。ジョウだけは、おむすびを持ってきていたので、一人で食べると言うと、仲間は冷たい目をのこして、食堂へ向かっていった。両親からお金がもらえなかったとは言えなかった。

 午後は、仲間が楽しく滑るのを遠くから見て、何事もなかったように一人で滑っていた。そして、帰り道の空は青く、急坂を胸を張って、一人で帰って行った。

 

 

 

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ラーメン4個の配達

 小学校から帰ると、何時も食堂の手伝いをしていた

 ある晩、暗い細い小路を通ってラーメンの配達に出た

 木箱に入れたラーメン4個は、小学5年には重かった

 雀荘の中は、たばこの煙がモウモウとしていた

 小さな声で「今晩は、ラーメンをお届けに上がりました」

 「そこへ、置いていけ」

 木箱からラーメンを出すと、麺がドンブリからこぼれていた

 「おい、おい、ダメじゃないか」と、怒鳴られた

 ある晩、ラーメン4個を木箱に入れて、配達にでた

 暗い小路を通るときに、麺がこぼれたような気がした

 雀荘の前で木箱を下ろし、こぼれている麺を箸で、そっとドンブリに戻した

 「今晩は、ラーメンをお届けに上がりました」

 ある晩、細い小路を通って、ラーメンの配達に出た

 小学5年でラーメン4個は重かったが、慣れてきた

 もう、麺をこぼすことはなかった

 「今晩は、ラーメンをお届けに上がりました」と大きな声で言った

 「そこえ、置いていけ」

 雀荘へラーメンを届ける時は、必ずお金をもらってくるように言われていた

 麻雀に熱中していた4人は、お金を払ってくれない

 何度もお願いし、辛抱強く待った

 「しょうがねえなあ」と立ち上がる声が聞こえた

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山の神の存在

 山の神は、外にも内にも存在し、崇めなければならない。

 小さい頃、山の神の存在を信じていた。正月になると、集落の子供たちを中心として獅子舞が各家庭を回って来た。最初は、「やるまたつるせ。神よ、神よ・・・・・・」というお祓いの言葉を唱え、紙飾りをつけた長い竹竿を家の中で何度もゆすった後、獅子舞を踊った。獅子舞は、踊り終えると、なまはげのように家人の頭をかじることにより、その年が健康であるとされ、恐ろしかった。

 冬の夜、吹き続けるこがらしの「ゴウー、ゴウー」となる山の音や、静かな夜に「ホゥー、ホゥー」となくフクロウの声は、山の神の存在をさらに真実のものとした。付近の山には、お伊勢様や金比羅様を祭る社と、熊野神社があった。家の周辺には、井戸神様や屋敷神様がおり、台所には、釜神様が住んでいた。宗教と違う自然崇拝の神様を信じることにより、住民は救われてきた。

 何年か前よりわが家の中にも、山の神が住みついた。七つ道具を背負い、子供を味方に付け、何度か戦ってみたが勝ち目はない。多分、悠然とした一生を送るだろう。この5月、中尊寺金色堂を家内と訪れた。覆い堂とガラスに囲まれているが、西方浄土を思わせる金色堂の風情が大好きである

 「五月雨の 降り残してや 光る堂」

 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

 の芭蕉の句を口ずさんだ。前回、一人で訪れたときに、自作「弁慶の墓に ツツジの 花むしろ」の俳句を作り、母に俳画を描いてもらい座敷に飾っている。

 中尊寺観光の後、家内が興味をもっている岩手県遠野の語り部による民話を聞いた。さらに、カッパの淵や座敷わらしがいたという住居跡に行ってみた。カッパの淵は、小さい流れながら、カッパが現れそうな雰囲気であった。また、座敷わらしが居なくなると、その家は貧乏になるという。田舎暮らしの我が家は、トトロの住むようないろりや土間がある昔ながらの古い家である。

 座敷わらしは見たことはないが、何年も前から座敷わらしが出ていかないように、人形の女の子を座敷に飾っている。

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地球の温度

 新生代第4紀は氷河の時代で、約1万年前から氷河の後退が始まりました。現在の地球の気温は、生物が住みよい約15度に保たれ、縄文中期には平均気温が2~5度高くなりました。 

 第4紀の氷河期の最後は、約2万年前のウルム氷期で、年平均気温が現在よりも7~8度低く、東京が今の札幌位の気温でした。現在は、地球の約10分1が氷に覆われていますが、当時は、3分1が氷に覆われ、海面は、今より約100メートル低く、日本列島と大陸は地続きでした。この証拠は、大陸にいたマンモスやナウマンゾウの骨が、日本列島でも発見されるためです。

 その後、温暖化が進み、今から約5000年前の縄文時代中期には、かなり地球が温暖となりました。この温暖化により、木の実や獣などの人間の食料が豊富になり、日本において、縄文人が急増しました。また、海面が上昇し、関東地方では、現在の海岸線より約50~60キロメートル陸地に海が入り、この現象を「縄文海進」といっています。その後の江戸時代には、一時的に地球は寒冷となり、日本においては、亨保、天明、天保の三大飢饉がおこりました。 

 オスロからベルゲン鉄道に乗り数時間、スカンディナヴィア山脈の南端のある駅に降りたつと、氷の山が広がっていました。初めて見る氷河で、約100万年前のノルウェーは、1000~3000メートルの氷河に覆われていました。その後、氷河の後退が始まり、氷河で削られたU字谷に海水が入り込み、できた入り江がフィヨルドです。ノルウェーにある4大フィヨルドのうち、ソグネフィヨルドを遊覧船に乗り、また、バスでハダンゲルゲル・フィヨルドを観光しました。水深1000メートル、周辺の山々約1000メートルの紅葉の峡谷に、意に尽くせない感動を覚えました。

 北極圏といえば、氷の山々と白熊を思い浮かべますが、ワールドウォッチ研究所の理事長、レスター・ブラウンの講演で、2000年にロシアの砕氷船が北極に到達したとき、氷山はなく、静かな青い海が広がっていたそうです。また、北極圏のグリーンランドでは、近年急速に氷が溶け始め、氷河が後退しています。過去100年間の地球の温度は0.6度上昇し、さらに温暖化は急速に進んでいます。

 長い地質史からみると、地球の温度は大きな変動をしてきました。しかし、現在の地球の温暖化は、大量の石油や石炭などの化石燃料消費による二酸化炭素の排出が及ぼす、温室効果によるものです。二酸化炭素の排出は、アメリカが世界の排出量の23%で一位、二位がEUの13%、三位中国の12%、以下ロシア、日本、インドの順となっています。   

 縄文中期の温暖化は、食料が充足され、人類の生存にプラスであったと思っています。しかし、今後の地球の温暖化は、単純に温度が上がるだけではなく、地域によって温度や降雨などの気象変動が拡大し、気象災害による農作物の生産が不安定になり、飢餓の拡大につながります。今でも、地球の飢餓人口は、約8億人とも言われています。 

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平和の追求

 世界では、イラク戦争、アフガニスタン内戦、パレスチナ紛争などをはじめとした紛争が、各地で、絶えることなく続いている。なぜ止まないのでしょうか。

 スリランカ国を訪問したある年、年末に出かける出張予定が3月にずれ込んだ。当時スリランカでは、仏教徒で多数派のシンハラ人と北部に住むヒンドゥー教徒のタミル人との内戦が続き、約7万人が死亡していた。コロンボからキャンディをへて、現地視察で入った北部にあるアヌラダプラへ向かう途中、焼けこげた車両が道路に転がっていたり、夜間は外出禁止であった。一時休止したが今も、この紛争は続いている。アヌラダプラには、インドのブッダ・ガヤから分け枝されたスリ・マハ菩提樹があり、周囲では熱心な仏教徒が祈りを捧げていた。

 イタリアのヴェネチアへ行った時、海上都市として素晴らしい風景であったが、アドリア海の真向かいで、旧ユーゴスラビア内戦やコソヴォ紛争などがあったことなど信じることができなかった。また、エジプトでのイスラム原理主義過激派による観光客への襲撃は、ピラミッドや王家の谷の観光に大きな打撃を与えている。

 ウィーンにある美術史美術館の最大の目玉は、ブリューゲル作の「バベルの塔」である。旧約聖書の中の物語で、天にとどく塔を建設しようとして神の怒りに触れ、人類の言葉が混乱させられたことを主題にしている。ヨーロッパは、第一次、第二次世界大戦の戦場となったが、戦争が終われば同じ地域に、同じ国家が形成された。このことは、言葉、民族の違いが大きく影響している。この二度の経験からヨーロッパ諸国は、欧州連合(EU)を形成し、二度と戦争を起こさない努力が続けられている。

 現在のヨーロッパが求めているキーワードは、第一が平和の追求、第二に地球環境の改善、第三に食料の自給であると思っている。

 

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コペルニクス的転換

 バイオリンのような趣味や、日常生活、仕事でも、一生懸命やっていると、必ず、大なり小なりの壁が存在してきました。 

 バイオリンを始める時、「選択肢は二つ、今やるか、一生やらないか」、と思いました。日常も同じことです。そして、長期的目標は、志しを高くもつことが必要だと思います。途中で「目標を下げると失敗する、目標を上げると成功する」、という経験がありました。長い研究生活の最後の職場において、世界に通用する技術開発をスローガンとしたことに、今も、誇りをもっています。

 人間関係は、人生を生きるうえで、最も大変なことです。同僚や部下の志気をうかがうとき、「武士の弱気は、馬に伝わる」といいます。見通しが立たなければ、判断をし、「諦めるということも、積極的な生き方です」。厳しい現実ですが、視点を変えれば、「難題があるから、人生は、生きるに値する」ともいいます。もしも、他人と比較して、「こんなに・・・・しているのに」と言うんだったら、その挑戦は止めた方が賢明です。

 山中鹿之助が月に祈った、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という志しと、コペルニクスが、地球は太陽を回っている、というこれまでにない発想、「コペルニクス的転換」を常に頭に置き、「シンプルライフを、人生の軸にすえて」、生きてみることが、のんびりブレイクにつながります。

 英語会話を始めてから、まだ3ヶ月、少しも上達しないと思っていましたが、最近、あるアメリカ映画の会話が聞き取れて、嬉しくなりました。上達や向上は、階段のように停滞、壁、壁を破ることによる上昇の繰り返しで、破った壁を抜けると、新しい世界が見えてきます。

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ガリレオの夢

ガリレオはどんな夢をみたのでしょうか。

 今年の冬は寒く、外気温がマイナス15度の時、隙間だらけの田舎暮らしの室温は、マイナス6度でした。余りの寒さに耐えきれず、室内にテントを張ると1度高くなりました。台所のやかんの水は凍ってしまうので、冷蔵庫にしまいました。そんな暗い早朝、星空を切り裂くような大きな流星に出会い、何か良いことがありそうな気分になりました。

 暗い中世から新しい改革を求めたルネッサンスの時代に、イタリアのピサの町に住んでいたガリレオは、自ら望遠鏡を作り、月のクレーターや、土星に4つの衛星があることを明らかにしました。その後、地動説を唱え、ローマ教会により宗教裁判にかけられましたが、「それでも地球は動いている」という有名な言葉を残しました

 ピサの町は、フィレンツェの近くにある小さな町でした。ガリレオが落下試験をしたピサの斜塔は約55メートル、工事が終わり斜塔の頂上まで登っている人がいました。青い芝生のうえに座り、どんな困難にも負けない強い信念と行動をとった、ガリレオの生き方を思っていると、太陽は次第に傾き、夕日が大聖堂の白い大理石をつつみ、美しいピンク色に輝き始めました。

 この地球は、現在時速1,300キロメートルで自転し、さらに、時速11万キロメートルという猛スピードで公転しています。太陽を見つめていると、半年後、ちょうど太陽の反対側に私たちの住む地球は位置することになります。地球と太陽、大きな視野ですね。

 誰もがいろいろな困難にぶつかります。そんな時、ガリレオの夢や、地球の存在を思うことにより、新しい自分を発見できるのではないでしょうか。

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音の不思議

 音楽は、はじめ神に捧げるものであった。

 ブタペストの市街を流れるドナウ河の川岸に一人で座り、ヨハンシュトラウスの作曲した「美しき青きドナウ」ではない、汚れた川面を見ていた。日本へ電話をかけ終えてから小石を川面に投げた。「ボチヤ」という音が、今も記憶に残っている。小石を2つ拾い記念にボケットに入れた。 翌日、ベートーベンの田園を作曲した森や、シューベルトの住んだ家を訪ね、自由時間にはひとり、モーツァルトが歩いたというウィーンの街を散策した。

 クラッシック音楽を聞き始めてから、弦楽器に興味をもち、最初に、鈴木のバイオリンを買った。2台めのバイオリンは西ドイツ製で、f字孔からのぞいて見ると、小さくアントニオ・ストラディヴァリの名のシールが張ってあって、驚いた。実際は、ストラディヴァリ型と同じ設計図のバイオリンという意味で「ロート」という銘柄の楽器であった。

 バイオリンは、今から約300年前、イタリアのクレモナに生まれたアマティとその弟子たちにより考案され、弟子のひとりアントニオ・ストラディヴァリは、もっとも有名なバイオリン製作者として知られている。彼の作ったバイオリンは、約600台あり、クレモナ市庁には、「イル・クレモネーゼ」と呼ばれる世界一美しい音のでるバイオリンがあるという。

 バイオリンは人間と同じように、生きていると言われ、楽器の価格にかかわらず、大切に扱い、毎日楽しく、厳しく弾くことが上達の秘訣である。千住真理子は「他人の三倍練習して、私はやっと人並みに弾ける」と書いている。

  5年間、バイオリンを毎日弾いていた。ストレスがたくさんあったが、バイオリンの音は、ストレスを吸収してくれた。この頃、ようやく、「耳をすませば」、「花の街」、バッハやモーッアルトの小曲を楽しんで、弾いている。

Try new things.You only live once. (人生は1度きりしかない)

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クエの安らぎ

 人間は、いかに生きるべきかを考えていた。突然、海が見たくなり、クエに出会った。

 その日は、大雪で、新潟県境は1メートル余りの銀世界であった。直江津駅に降りると、雪は少な目であったが、道路には雪を溶かす小さな噴水が続いていた。堤防沿いに歩いていくと、寒風の中を数百羽のカモメが一列に並び海を見ていた。日本海は、数メートルの波が轟音とともに、限りなく砂浜にうち寄せ、凍った鉛のなかに身を置くようであった

 寒さに耐えきれず水族館に立ち寄った。大回漕には、タイやサメやたくさんの大きな魚が悠然と泳いでいる。また、色鮮やかな小魚の群は一見、楽しそうである。しかし、その中に、数匹の魚が他の魚に攻撃され、怪我をして泳いでいた。館員に尋ねると、「新しく入れた魚や病気の魚は攻撃されて死亡することがある」という。

         豆を煮るに豆殻を炊く                                

      豆は釜中(ふちゅう)にありて泣く

      もとこれ同根より生ず   

      相煮る何ぞはなはだ急なる   

                  七歩の詩

 たどりついた薄暗い部屋の水槽に目を凝らしてみると、体長は1メートル位、丸い目を動かすわけでもなく、息をしているとも見えない丸太のような魚にであった。シーラカンスの親戚のような気もする、この魚の名前は、クエであった。数時間、クエに対峙していると、不思議に大きな海を見ているような、安らぎを覚えた。

 人間が、誕生してから500万年という月日が流れてきた。どう生きるかなどと考えるのではなく、クエに出会って、岩のような存在にも意義があることを知った。

      静かさや岩にしみいる蝉の声  芭蕉

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自然との対話

 書くこと、話すこと、実践することの意識を大切にしてきました。しかし、これまでの人生には、困ったことがいっぱいありました

 実生から生えたケヤキの木を庭に植え、30年間大切にしてきました。しかし、増築のため、自分で切り倒しました。ケヤキの木は、ハンモックをつるし子供たちが遊んだことや、鳥が巣を作って、誤ってひなが落ちてきたこともありました。夏は日陰となり、秋には枯れ葉が落ち、明るい光が空に広がりました。切り倒した後、災難よけのため切り株に日本酒をふりかけました。しかし、あまりに大きな木であったので、環境が変わり、困ったことのないようにと心配していました。

 こんな話を友人にした所、「困る」と言う字は、□のなかに木という字がかかれている。この「困る」から木を取ると、自分の家の□に囲った敷地だけが残り、困ることはないと言われ、安心しました。翌年、セミの幼虫が周辺から何匹かでてきましが、ケヤキの木のないのに驚いたことでしょう。この年、不思議なことに、はじめてケヤキの実生が2本自然に生えてきました。また、約10年たった、サルスベリの木を駐車場にするため、切り倒したところ、その年、はじめて実生が生えました。

 この当時、困ったことのひとつに、人前での挨拶がありました。意を決して「話し方教室」に通いました。それまでは、挨拶の文章を作り、正確に間違わないように話していたのですが、訓練をして、作ってから、それにこだわらない話し方に変え、見違えるように自信がわいてきました。文章作成講座には10年ほど通いました。現在、書くことは大好きです。話すことも楽しくなりました。実践することも得意としています。

 のんびりブレイクのブログを始め、日毎、ウグイスやカッコーの声を聞き、今日は庭に、親株に子株の付いた水芭蕉を植えました。自然は、もっとも信頼のおける友人です。

 私の生活のなかで、今までの生き方は続くのでしょうが、自然との対話から、若い人たちが、ケヤキやサルスベリの実生のように、いっぱい芽を出し始めたことに気がつきました

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塩ホッケの味3

 紅葉が里にやってきた。おれは、ばあやんに連れられてきのこ取りに山に入った。あまりにたくさんのきのこが生えていて、夢中になって取っていると、二人とも道に迷ってしまった。背負いかごをおろしたばあやんは、「こんな時は、キツネにばかされているからな」とつぶやきながら、三べん回って、額に手を合わせ、お呪いをした。すると、不思議なことに人が変わったように道が分かり、歩き出した。たくさんとったクリタケやアミタケは、塩漬けにして春まで保存することができた。昔から、夕方には、山へ入るなと言われていた。

 その晩の真夜中、向かいの山の尾根を小さな明かりがひとつ見え、ふたつ見え、次々と続いてくる。そして、尾根全体が赤い炎で包まれた。そして、先の沢にひとつ、ひとつと消えていった。昔から、キツネの嫁入りを見ると不幸なことが起こると言われていた。脳裏から消えることのないこの行列を見たことは、誰にも話さなかった。

 真冬は、すきま風が家を通り抜ける。その年は寒く、流行風邪が広まった。近くの集落で子供が亡くなったという話が伝わってきた。おれも、その風邪にかかってしまった。キツネの嫁入りを見たせいである。高い熱が何日も続き、何も食べることができず、体が弱っていた。そんなとき、どこで買ってきたのか、お皿の上に塩ホッケがのっていた。「ほれ、食べろ、食べろ」、かあやんはおれの口に塩ホッケを入れた。しょっぱいはずの塩ホッケは少しも味がしなかった。当時の農村では、魚など食べることはなく、しばらくして、呪いが解けたように、おれは元気になった。

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塩ホッケの味2

 バスの終点である小諸駅の近くにかあちゃんの実家があった。商売をしていた実家の玄関は、いつもきれいに掃除され、水がまかれていた。大きな柱時計や、壁にかかっている電話は物珍しかった。また、近くには藤村が立ち寄ったという「揚羽屋」があった。

 懐古園がすぐ近くであったので、かくれんぼうをするには絶好の場所である。隠れる場所は、三の門から二の丸跡までと決まっていた。この間は、苔むした石垣で囲まれ、道を折れると、「かたはらに 秋草の花かたるらく ほろびしものは なつかしきかな」の歌碑があった。夏には、三の門からまっすぐ紅葉谷を下り、禁止されていた千曲川で泳ぐこともあった。途中、踏み荒らされていない谷の小道は、ツユクサやミズヒキソウが一面に生い茂り、深い谷の空気は静まり返っていた。

 千曲川で泳ぎ疲れ、寝ころびになりながら、「藤村は、偉い人なんだぞ」と誰かが言うと、「そんなことないさ、藤村は借金ばかりしていたっていうぞ」という答えが返ってきた。藤村が小諸に住んでいた時、お金がなく、いつも麦飯であったそうである。

 蓼科山の寒村は、当時極貧の状態であったが、都会の生活を知ることもなく、破れた衣服を着て魚取りや蜂の子取り、アケビ取りなどをして、毎日が楽しかった。遊び疲れて家路に帰るたんぼ道で「一番星、見つけた」と誰かが叫ぶと、しばらくして「二番星、見つけた」と、次々と叫び声が続き、夏の天の川が消えて、オリオン座が昇っていった。

 我が家も、当時はいろりで煮炊きをしていた。時々、ばあやんが「おほうと」を作ってくれた。粉をこね、大きな包丁で切ったあと、「きょうは、油をいれてやるからうまいぞ」と、お玉に半分の食用油をグツグツ煮えたぎっている鍋に入れた。いろりの赤いおきが、ちろちろと青い炎をあげ、時には、パッチと火がはねることがあった。続く

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塩ホッケの味1

塩ホッケの味1

 蓼科山の山麓のとある村に育った「おーい、トラックが来たぞ」。桑の枝でちゃんばらをしていた子供たちが慌てて県道にかけていく。この村へトラックが来ることは珍しいことであった。「すげえなあ。8輪車だあ」。雨上がりの道路は、でこぼこしていたが、トラックは、黒煙を吐きだし、瞬く間に通り過ぎた。

 柿の木に登っていた信ちゃんが、どこから話を聞いてきたのか、「アメリカでは、一軒に一台車があるってぞ」といったが、誰も信じることはなかった。信ちゃんは、東京に住んでいて、空襲で家を焼かれ、この村に疎開していた少年である。柿の木の根元に脱ぎ捨てられたゴム草履は、すっかりすり減っていた。うちのばあやんが、「柿の木は折れやすいから、早く降りれや」といって通り過ぎた。

 ある朝、かあちゃんが用事で里帰りすることになり、三人兄弟の俺だけがついていくことになった。田んぼの植え付けが終わった谷間の集落は、緑にあふれていた。この谷間の集落をでることは、めったにあることではない。かあちゃんと俺を見送るかのごとく、ウグイスの声が雑木林のあちこちから聞こえてきた。また、畑に作られている一面の小麦の穂がざわざわと音をたてた。バスの停留所は、家から歩いて約30分の谷間をぬけた中山道沿いにあった。歩いていく道の脇を流れる小川が、千曲川にそそぎ、海に通じていることなど想像することもできなかった。かあちゃんは、どんどんと早足で歩き、ときおり待っていた。

 乗ったバスは、比較的空いていたが、しばらく走ったあと突然、「ストスト、ストーン」とエンジンが弱まり道の真ん中で止まってしまった。「しばらく、お待ち下さい」と運転手と車掌は、慌てて外に飛び出した。前部に出っ張ったポンネットを二つに折って開けると、水蒸気がもうもうとあがっていた。修理を終えた後、道の脇の小川からバケツで水をくみ注いだ後、L字状の棒でエンジンをかけた。「ブルブル、プルーン」という威勢のよい音に、「ワー」と乗客は歓声をあげた。続く

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