諏訪湖一周と蚕糸王国の崩壊
ウォーキングで朝6時から歩き始め、12時に一周を終えました。
諏訪大社は、諏訪湖の南側(上流)に上社の本宮と前宮、北側(下流)に下社の春宮と秋宮があり、4宮からなりたっています。出発にあたり下社秋宮を参拝し、一日の安全と健康祈願をしました。
自家用車は、ハーモ美術館の近くの公園の無料駐車場に停めました。諏訪湖は、標高759m、周囲約16㎞で、下諏訪町、諏訪市、岡谷市の3市町からなっています。
空は曇っていましたが湖面は青く、ほぼ半分の距離と思われる対岸の下水道終末処理場とルネ・ラリック美術館を遠く望みながら、これからの歩きに胸が躍りました。
すぐに、諏訪湖博物館を過ぎ、北沢美術館、サンリツ服部美術館、出発時に白い湯気が高くあがっているのが間欠泉の湯気かと思っていましたが、近づくと温泉植物園の湯気でした。間欠泉センターの間欠泉は、白い湯気が数十センチ立ち上っているだけでした。
上諏訪の湖面の繁華街は、数日後の花火大会のため、あちこちに規制のロープが張られていました。数年前、子供が岡谷市に住んでいたので、その時妻は諏訪の花火大会をみて感動し、また見たいと言いながら歩いて行きました。今回は、妻と同伴でした。
ヨットハーバー、原田泰治美術館を過ぎて半分の距離の少し手前、ルネ・ラリック美術館で小休止をとりました。毎日歩いていたのですが、足が重く、30分の休憩をすることにより、やっと楽になりました。
釜口水門までは道路に面していますので、朝の通勤の車が頻繁で、また歩道は通学の高校生が自転車で通過する中を、この間だけは黙々と歩きました。
岡谷市に位置する釜口水門の近くの、小口太郎の「琵琶湖就航の歌」の碑の近くで朝食をとり、対岸の公園の芝生で、歩き慣れていない妻が疲れたようでしたので約1時間の休憩を取りました。
湖面には、高く噴水があがり、時折大きな魚が飛び上がり波紋を広げ、芝生に寝ころび、久しぶりののんびりブレイクとなりました。
諏訪湖周辺は、蚕糸王国として戦前まで素晴らしい繁栄をしてきました。当時は、糸町として大きな煙突が千本あり、その煙で諏訪のスズメは黒かったと言われています。
山本茂実の『ああ野麦峠』に書かれているような「おしん」以上の苦労が、諏訪の女工にもありました。その事情を語り続けた岐阜県の故山腰清観さんは、小学生の時に「みんなが行くなら私も」と大正三年、母が夜なべで縫ってくれた足袋に草履を履いて、少女15人位で村を出発、野麦峠は雪で、先頭がもつ命綱を全員が握りしめて進んだそうです。野麦峠を越えてからも、岡谷での女工の生活は、辛いことが多かったようです。
何年か前に、野麦峠に行く機会があり、資料館やお助け小屋などを見ましたが、とても辛い気持ちになりました。しかし、女工哀史に描かれた飛騨の女工の約9割は製糸工場に行って良かったと思っているそうです。悲しく辛いことは当たり前で、当時の日本の農村の貧しさの象徴であったのでしょう。
父の話によると、昭和の初めの頃、現金が得られるのは我が家では、お蚕さんしかなかったようです。小さい頃袋に入れた繭を荷車に乗せ押しながら、祖父とともに半日かけて小諸へもっていき、売ってから食べたうどんが忘れられなかったと言っていました。
私の小さい頃でも、どこの家でもお蚕さんを何回もはき、始めは一葉一葉づつの桑摘み、大きくなると枝付きの桑を束にして背負ったものです。お蚕さんに家中を占領され、夜中に「サクサクサク、サクサクサク」と桑を食べる音が忘れられません。
製糸が盛んなときでも、「生死業」といわれたほどの蚕糸業は、戦後急速に減少し、長野県ではほとんどの農家が飼っていた蚕が、現在数戸となり「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」ほどの衰退に唖然としています。
岡谷東高校の横を通り、白鳥の飛来地を過ぎ、駐車場へ12時に戻りました。歩道はほとんどが整備され、快適なウォーキングでした。通常ですと4時間程度でまわれるでしょうが今回は6時間をかけました。
疲れをいやすために、諏訪大社下社秋宮の200mくらいの共同風呂「児湯」で汗を流し快適でした。隣は、新鶴本店で塩羊羹は有名でいつも購入します。諏訪周辺の温泉では、女工さんも入ったという上諏訪の片倉館「千人風呂」や岡谷の「ロマネット」はお奨めです。
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